さんじゅいちねん

瞳をとじて」を見た。

待ちに待った映画だった。ヴィクトルエリセ31年ぶりの新作。そうか「マルメロの陽光」を劇場で見て31年も経つのか。その頃、エリセは10年に1本映画を撮る監督だった。大学の頃リバイバルでエリセの映画を見てやられた。リアルタイムで見る初めてのエリセが「マルメロの陽光」だった。あのとき、また10年は新作が見れないのか、長いな、なんて思っていた。10年待った。公開されなかった。20年待っても公開されない。30年待っても公開されない。そして31年、満を持しての新作だ。これはもう事件だ。いや、もう存在するだけで奇跡とさえ言える映画だ。そしてこれがまた、とんでもない映画だった。もうね、始まった瞬間から、映画だった。映画でしかない映画だった。映画についての映画であり、時間についての映画だ。写真についての映画でもある。写真の連続が映画だ。瞬間の集積が人生でもある。31年の時間がそこに横たわる。過去と記憶と写真と虚構についての映画でもある。かつて映画監督だった男と、かつて映画俳優だった消えた男の話だ。もともと親友だった2人。20年前に消えた俳優。完成しなかった映画。この映画に描かれているものは、「かつて」「何か」であったものたちだ。失われようとしているものをすくい上げるような話に感じられた。31年という空白の時間そのものを映画という形で浮かび上がらせたようなそんな感じもある。失踪した男を捜す話を描きながら、ものすごく多重的に映画は展開していく。まず始まりからしてトリッキーだ。20年前に完成しなかった別の映画で始まる。途中には映画史をなぞるようにリュミエールの列車到着を引用し、かつて映画だったフィルムたちに光を当て、自身の監督作品に主演した子役を50年ぶりに同じ役名で起用するなど、なんとも語るところの多い映画になっている。正直、まだ自分の中で処理し切れてない。永遠に処理できないかもしれない。でも30年の集積を感じた。しばらくはその余韻にひたっていたい。

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