せいけつがすぎる

「消滅世界」を見た。

なんか漂白されきった世界に圧迫される映画だった。ずっと、なんか白い。合理性と正しさの概念が行きすぎて、清潔な世界を生んだ近い未来の話。とにかく薄気味わりいほど白くてそれが窮屈に圧迫してくる映画だった。今の感覚で言えば、価値観がちょっと違っている世界の話。夫婦間の性行為が不謹慎とされる世界。夫婦間の性行為が近親相姦とされる。子どもは人工授精で産むのが当たり前。家族という概念はある。しかし恋愛と家族は切り離される。家族は家族、恋愛は恋愛。その方が合理的だとされ、それが常識となっている。恋人は家の外に持つか、仮想現実の中でするもの。合理的考え方が概念を変えて、いつしかそれが常識になる。それが突飛なモノではなく、極めてさらりと背景として描かれるのがこの映画の薄気味悪さだ。「ない」とは言えない近未来としてそれがある。描かれる日常そのものは今とほとんど何も変わらない。いまあるありふれた日常を描きながら、その背景にある常識だけが、ちょっと違っている。物語の主人公は、夫婦間の性交渉で産まれた子ども。この世界ではタブーとされる存在。学校では気持ち悪いといじめられ、そのことが本人のコンプレックスとなる。絶対に母のようにはなりたくないと心に誓って生きる。そしてこの世界の常識の中で結婚し、外に恋人も作り、さらに合理的で持続可能な生活を求め、よりクリーンな実験都市に暮らし始める。合理的で正しい価値観が映画の中で進化していく。そこに見えてくるものは何か。もちろん突飛な話ではあるけど、なくもない話しにも思える。現に自分達が常識と思っているものが、世界の常識ではないという事実もある。実際生殖と子どもの養育が結びつかない家族の実例もあって、牛の価値が最も重要視されるアフリカの村では、女性でも牛を持っていれば妻として男性を家に迎え入れるらしく、別の肉体的パートナーである男性との間に作った子どもを妻である男性と育てるのだという。そんな部族もいることを文化人類学の本で読んだ。わたしたちが常識と思っているものは、まったく常識ではないし、例えば自分が子どもの頃に見ていたいわゆるふつうの家族像と、いまの日本の家族の形もやはりそれなりに変わってきている。映画で描かれるような概念が浸透するかはわからないが、世界は少しずつ白くなっている気はしている。どんどん合理的で清潔でクリーンになっていく世の中が、もっともっと白くなりすぎて消えちゃうんじゃないかって思う薄気味悪さの中で、コンプレックスを抱えた主人公が、より常識的でありたいと渇望して今の感覚では最もタブーとされるところに流れついていくが、常識が変わるとその中で思う個々の正しさの概念も変わっていくな、と、かなりビターな後味でながら、そのいびつさこそがやはり人間よねと思う映画でもあった。とにかく常識なんてものに従って正しく生きてさえいればいいという思考停止は実は恐ろしいですよって映画だ。「コンビニ人間」「信仰」という小説を読んだことがある村田沙耶香が原作だというのでさっそく本を買ってみた。またきっとえぐられるのだろう。

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